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社長ブログ - 靴下・ソックス・ストッキングの製造販売 株式会社 三笠

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靴下メーカー三笠の
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社長ブログ

三笠の歴史 Part11

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年12月02日(月)

2010年弊社の将来を考え靴下の卸売から靴下製造メーカーへのシフトを真剣に考える様になっていました。

時間があれば、上海近郊の物件を見学に行って色々試算をして構想をしていたのですが、上海は家賃も年々高騰し、労働者の賃金の上昇率は毎年20%以上そして国防動員法が施行されてしまいました。(国防動員法とは、中華人民共和国で2010年7月1日から施行された法律で、 内容を簡単に言えば、中国国内で戦争や武力衝突が発生した際に、金融機関や立海空の交通輸送手段、港湾施設、報道やインターネット、医療機関、郵便、建設、貿易、食糧などの民間資源をすべて政府の管理下に置くことができる、というもの。)こんな悪条件では、中国に工場を作って靴下を生産するなんてリスクが大き過ぎると断念してしまいました。

でも、やっぱり三笠としての生産工場が欲しい!

ベトナム・タイ・バングラデシュ等も検討しましたが、なかなか管理するのも難しく、いずれは中国と同じ様に、家賃も人件費も上がってしまうと思いこちらも諦めてしまいました。

そして、私の中では工場を建設するという夢は次第に消えかけていってしまったのです。

つづく、、、

下の写真は、毎週物件を探していた時の写真です。(上海郊外の松江の工業団地)

songjang

先週末は、本社と物流合同の忘年会が行われました。

全て、企画進行は全て本社の若手スタッフにお任せして、私は乾杯のご挨拶!!

10月の売上げは、ちょっと厳しかったのですが、11月は昨年を超えていたので、12月に寒さがやってくれば目標は達成できると思います。

みなさんあと残り1ヶ月頑張って下さい。乾杯!という感じのコメントでスタートしました。

以前は、カラオケ等の2次会もセットでしたが、最近はジジ抜き?になってしまったみたいなので、おとなしく帰りました。

まあ、楽しんで貰えればそれで良いと思います。

 

三笠の歴史 Part7

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月19日(火)

2001年以降は、中国の浙江省海寧市にある女性社長の工場とタッグを組んで、ヒット商品がどんどん生まれ工場の規模は次第に拡大していったのです。

まだ20代だった女性社長の管理や考え方も素晴らしく、三笠との協力関係が出来上がり工場で生産する殆どの商品は、弊社向けという感じにまでなりました。

工場の建物は古かったのですが、清掃や管理がしっかりされていて、工場点検にいらしたお取引先様もこの工場は良いと驚く程だったのです。

丸編み靴下は完了し、次は5本指靴下を作れる工場を探して2003年頃から紹興の近くにある上虞市の周辺の工場へ通う事になりました。

この頃の中国は、まだ無理にお酒を飲まされるし、タバコも無理に吸わされる習慣だったので大変でした。

工場での商談が終わると、夜はホテルのレストランで円卓を囲み、日本人の来客という事で、あまり関係のない様な銀行さんやら役人さんやらまでやってきて大人数での宴会!

入れ替わり立ち替わりにお酌され乾杯(カンペイ)=一気飲みそしてタバコを渡されて火を付けられるの繰り返し!倒れる位まで飲まされました。(今ではこんな事はほぼありません)

2ヶ月に1度ぐらいは上虞という街にへ行き5.6年は通ったと思います。(現在は仕入れ担当スタッフが通っています。)

そんな中国の活気に魅了され、中国では2003年位まで中国企業との合弁しか認められていませんでしたが、独資での企業が可能になり2006年に日系企業が集中する上海古北に上海三笠(美咖莎服饰贸易有限公司)を資本金20万ドルにて開設しました。(もうすぐ13年になります。)

この頃から上海にマンションを借り開設後しばらくは、年間200日以上中国という生活が続きました。

タラレバになりますが、資本金で使った20万ドルでマンションを買っていれば、軽く10倍以上になっていました。

そして2007年頃、関係の良かった浙江省海寧市にある女性社長が高級な造りの大きな工場を落成し、弊社との関係に亀裂が入り始めたのでした。

つづく、、、

今日の写真は、上海三笠開設した当初のスタッフ2名の曹さんと林さんです。

shanghai

昨日は、ブランディングの先生が来てミーティングが行われましたが、なるべくお金を使わないで、商品をバズらせる方法を伝授して頂ける様にお願いしました。

具体的なサンプルも出来上がって来ているので、早くバズってくれると良いですね。

おっさんには、専門用語が多くて難しいです。

 

三笠の歴史 Part6

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月18日(月)

メインのお取引先のユーコープ様はバブル崩壊の時期に、大型店の出店が続いてバブルが崩壊した後でも弊社の売上げは順調だったのですが、、、暫く年月が経過してから、衣料・雑貨の売り場を縮小して専門店等に変更する改装が始まってしまいました。
その影響で、1990年代後半になると売り上げが急激に減ってこのままでは潰れてしまうほど厳しい状況になり販売先を増やさなくては生き残れない!
とはいえそう簡単に新規の取引先を増やす事は難しい、、、さてどうしよう???
今までのユーコープさんの実績を持って、全国の生協さんへ商談に行き始めたのですが、中々簡単にはいきませんでした。
そんな中、商談に行ったある生協のバイヤーさんが、「みんなどこの業者も3足1,000円とか同じ様な靴下ばっかりでつまらない100円均一の時代だから1足100円くらいのインパクトある靴下持ってこいそうしたら取引きしてやる」と課題を与えられました。
この時期は、安い靴下は韓国製の方が圧倒的に多い時代で、靴下の輸入商社さんは更に安い靴下を求めて中国へシフトを始めていた時期でした。
これは、商社もどこも使わないで、中国の工場と直接取引するしか無い!2000年に中国へ行って工場と直接商談し、写真の様な10足980円で販売できる商品の開発に成功!
この商品が爆発的に売れてたんです。
たまたま最初に取引した中国靴下工場の女性社長が、独立したばかりで前職が、大手の靴下工場で品質管理を担当していた事もあり商品の評判も良くこの工場で作る新規商品は、次々に売れて全国の生協さんの取引口座を頂く事ができました。
つづく、、、

boy

今年で、5年連続出場になるホノルルマラソンが、近づいているので、週末は2日連続ハーフマラソンを走りました。
あまりやり過ぎると、アキレス腱や膝にも影響がでるといけないので、ほどほどにしないといけないとは思うのですが、調節が出来ないんです。
明後日から奈良へ行き、来週は中国の予定なので、あっという間にホノルルマラソンの本番になりそうなので焦っています。

三笠の歴史 Part5

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月15日(金)

いよいよ元号が平成になる頃に、弊社のメインのお取引先様のかながわ生協さんが、激変の時になりました。
近県の静岡・山梨の生協さんと事業連合して大型の店舗を出店をする事になり、色々な業種から人材を募集しバイヤーさんも外部からの方が入って来たんです。
それに伴って、納入する業者(ベンダー)もGMS(イオン・ヨーカドー等)と取引している大手の新規業者が増えました。
靴下の業者も、今まで2〜3社だったのが、7〜8社に増えてしまい競争が激しくなって来ました。
そして、生活協同組合連合会ユーコープ事業連合さんが、1991年に静岡県袋井市に大型店舗1号店ハーモス袋井が開店そして1992年に神奈川県座間市にハーモス座間を開店させました。
バブル全盛期は、開店・改装・商品の登録作業と大忙しの時期でした!
つづく、、、
写真は、1号店ハーモス袋井店があった場所です。2006年に閉店してオカノになりましたが、2008年に閉店して現在のキーテナントはニトリみたいです。

hrmos

中国でのものづくりは、今でも想定外の事が色々と起こるのです。
昨日、上海スタッフから私に電話があり、「社長!決定して発注した工場の社長から連絡があって、見積もりの計算間違っていたから値段が上がります。」との報告でした。
私が「なんで?発注書送った後でそんな認められません」と答えると、「それなら工場は商品を作らないと言っています。」との回答でした。
これに似た事が、最近は多くて困っています。
日本では、考えられないですね。

三笠の歴史 Part4

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月14日(木)

奈良での靴下修行を終了し、私が三笠に入社したのが、1982年(昭和57)でした。
その当時の弊社のメインのお取引先様は、かながわ生活協同組合さんで、売上げのほぼ8割を占めていました。
奈良から戻り、私が担当を任されたのは、県内のスーパーさんや小売店さんで、当時は、車でラウンドして注文を貰ったり集金したりといった仕事でしたが、
入って1年くらいが過ぎた頃に、販売のメインだったかながわ生協さんに対する売上げが半減し、会社存亡の危機がやって来ました。
この時に、かながわ生協さんを担当していた営業スタッフが、私に対して、このままでは会社はダメになるから、2代目のあなたは(ある宗教)に入信しないと会社は良くならないと迫られました。

そして、その宗教の色々な集まりに連れていかれたりしましたが、全く興味が無くお断りしたので、結果的にその営業スタッフは辞表を出し辞めてしまいました。
そして、私は急遽メインのお取引先様のかながわ生協さんを担当する事になったのです!何をしたら良いのか全く分からない中で、先代にとにかく毎日通えと言われ

それから、毎日必死に横浜市瀬谷区五貫目町にあったかながわ生協さんの商品部へ通い詰めバイヤーさんの仕事お手伝いをしてなんとか

売上げも直ぐに回復し、その後は好景気になり昭和63年に今の本社ビルを建てる事が出来ました。
つづく、、、
この写真は、5年前位に撮影した本社ビルです。
昭和64年から、一度大きなリニューアル工事を行いました。

honsha

弊社のデザイナーさんから、新商品のパッケージについての営業スタッフに対してのプレゼンがありました。
素晴らしく良くできたプレゼンにびっくり!今までにない感じのとても良いパッケージに仕上がりそうです。
完成したら、このブログでも紹介させて頂きます。

編機の修業中だった頃

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月13日(水)

当時の奈良の靴下工場には、まだ九州からの集団就職で来る人も大勢いて、大きな靴下工場にはその為の寮が有りました。
労働条件も厳しく、休みは週に1日あるかないかで、工場は24時間稼働でも2交代が当たり前でした。
東京で夜中まで遊んでいた生活から、朝寮を出てから朝、昼、晩の3食を工場の社長宅で食べて、それ以外は仕事と言う生活に一変してしまいました。
当時は痩せていましたが、体力だけには自信があり重たいダスリーの糸ケースを何度も運び喜ばれていましたが、編機について教えて頂いて方の奈良弁が何を言っているのかわからなくて理解できない事が多くあったのですが、悪くて聞き直す事もできなくて困っていました。
その当時の年配の方の奈良弁は日本語じゃない様に聞こえたのです。(大袈裟ではないです。)

それが理由という訳ではないのですが、編み機については覚えが悪く、一緒に入社した奈良県吉野山出身の同僚よりも夜勤を任せてもらう迄にかなり時間が掛かってしまいました。

その当時唯一楽しみだったのは、休みの日に当時奈良県で、非常にカッコ良く見られた横浜ナンバーのマイカーで、信貴生駒スカイラインへ行く事でした。!
つづく、、、
横浜の○○息子は、写真の新車を奈良で廃車に!

ramuda

今日は、本社での会議でした。
いつもは、物流から何名か参加するのですが、今月は忙しくて来られないとの連絡で本社スタッフだけで行いました。
今月は、注文点数が非常に多く物流のパートさん達は、土曜、日曜も出勤と平日は残業までして対応してくれているので、本当に感謝です。
納品が落ち着いたら何かお礼したいと思います。

三笠の歴史 Part3

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月12日(火)

横浜本社へ戻ったので、調子にのって三笠の歴史のつづきを書きます。
昭和51年に現在本社のある港南区日野南3丁目2ー71号へ移転したのですが、長年印刷工場として使われていたので、平屋建てのボロボロの建物でした。
この頃で、三笠のスタッフはパートさんを含んで10名程度で売上げは2億くらいだったと思います。
靴下とは関係ないので、弊社のホームページには書いていませんが、昭和54年頃に有限会社みかさを立ち上げて、港南台駅から徒歩5分くらいの場所にある212(ツーワンツー)ビル1階で和食みかさというお店を出していました。(7〜8年営業の後に閉店)
私が、高校生の時には、ここで出前や板前さんの手伝いをたまにやっていたんです。
高校の時は、直ぐにバイクの免許を取得して、朝から近所の読売新聞笹下販売所で、新聞配達のアルバイトそして昼は学校へ行き夜は関内駅前のセンタービル最上階に「カウベル」というライブのお店がありそこでウエーターをやっていました。
高校の3年間と専門学校へ通っていた時は、良く働き良く遊んだ時期でした。
あまりに遊び過ぎて、先代からそろそろ真面目に靴下を勉強しろと、奈良県大和高田市にあった「タケムラ靴下」さんへ編み立ての勉強へ行く事になってしまいました。

つづく、、、

takemura

この写真の場所が、私が2年修行したタケムラ靴下さんだった所で、現在は、梅田メリヤスさんと三山(糸屋さん)の事務所と配送所になっています。

三笠の歴史 Part2

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月07日(木)

昨日の続き、、、

私が、小学校の低学年までは、自宅兼事務所にて営業していましたが、事業の拡大により磯子区中原にある下の写真のビル1Fに引越しをしました。(現在のグーグルマップの写真)

この頃は、忠実屋さん・かながわ生協さんをメインに近郊のスーパーさんに靴下を納入していました。

週末には、伊勢佐木町の松坂屋さん他での店頭に出店し靴下の販売をしてていました。

私も良く一緒に行って靴下の販売をし販売が終わると、夜には家族で中華街へ行き食事するのが楽しみでした。

夏休み等には、当時の三笠ソックス営業マンの車で一緒に忠実屋さんの店舗を回ったりしていました。(こんな事もOKな時代でしたね。)

その後は、私が中学校の頃に、現在の本社がある港南区日野南にあった印刷工場跡地を購入して移転をしました。

この印刷工場跡地は、近くに大船に松竹の撮影所があったので、映画の「男はつらいよ」のフーテンの寅さんに出てくる寅さんの幼馴染・タコ社長が経営する印刷工場のロケで使われていたそうです。

つづく、、、

nakahara

今日は午後の羽田発なので、これから上海出張へ行ってきます。

三笠の歴史 Part1

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月06日(水)

あまり弊社のスタッフも知らないので、なぜ靴下の三笠という会社を設立したのか?という事を書いてみます。

私の母親が、靴下の街で有名な奈良県の広陵町の疋相という所の靴下工場の末っ子として生まれ育ちました。

母は、地元の高田高校を卒業した後に上京して、父と結婚し実家の靴下工場からの融資を得て横浜(現在の私の自宅)にて靴下の卸売を開始しました。

それがなんと私の生まれた昭和37年なんです。

父は、東京で政治家付の運転手をしていたので、運転が得意で車も持っていたらしく、当時奈良で靴下を買って車に積んで帰ると飛ぶ様に売れたと聞いていました。

お陰様で、私は小学校の頃までとても大変裕福な家庭で、なに不自由なく育ってしまいました。

一気に書くと長くなるので・・・

せっかくブログサイトも弊社のホームページになったので、私の記憶のある三笠の歴史をまた書きたいと思います。

つづく、、、

kutsushita

明日から中国出張に行ってきます。

中国国際輸入博覧会以外に急遽、工場2件へも行く事になったので予定はびっしりです。

中国就労ビザの更新も近づいているので、最近はあまり中国にいる時間が少ないので、手続きの予約を上手く行って年内に完了しなくてはなりません。

上海スタッフと相談して期限内に必ず完了させなくてはなりません。

わざわざビザ更新の為に行かなければならないなんて事がない様にしないと、、、

でも、最近は、中国人の日本行きビザの更新は緩和されているのに、日本人の中国就労ビザは本当に大変なんです。

点数制になっていて、ある基準に満たないと更新は許されません。

その基準に対して自己採点をしましたが、全然基準点数を満たしていませんでしたが、一応 ABCと3ランクの中のBランクになっています。

その内容の記事を見たい方は→ここをクリック!

おそらく、私の場合は中国に出資している会社のオーナーなので、更新がすんなりと出来るのだと思います。

 

やはり消費税の影響なのでしょうか?

カテゴリ: 横浜 公開日:2019年11月05日(火)

10月の売上げ入力もほぼ完了したみたいなので、集計してみたら昨年を大きく下回る86.4%これは厳しい!
ずっと調子良く推移していたのに、これは消費税の影響なのでしょうか?
かと言って、9月に特需と思う様な動きも無かったのに〜
それとも、暖かいというか、暑かった10月その影響で、冬物の動きが非常に悪いのが原因なのでしょうかね?
1月〜10月までの実績では、9月までの貯金を使い昨年比104.3%という数字なので、残りあと2カ月ですが、なんとか目標の105%を
超えられる様に頑張りたいと思います。

hashima

今日の写真は、三笠西日本営業所の検針工程です。

全ての商品を、Wヘッドのハシマの検針器にて検針を確実に行っています。

 

昨日の振替休日は、天気がよかったので、近場の逗子にある「なぎさ橋カフェ」に車を停めて1時間半くらいジョギングを行ってから、

車で着替えてモーニングセットを食べてきました。

飲食すれば、なんと駐車場3時間無料なので、この辺のコインパーキングの料金を考えるとメチャメチャお得なのでオススメです。

逗子の海岸沿いをを散歩するのも良いのでは?